春恋ねむ。の不定期ショコラβ(仮)

書庫をもじったものです。ステーキショコラにしようか迷いましたが、特に深い意味はありません。幽霊みたいな人が気まぐれで色々考えるブログ的なものがコンセプト。しばらくは暫定として、不定期ショコラSNS.β(仮)という記事に短文形式で書き込んでいく、アップデートしていく的な感じでやっていく予定でござるん。

春恋ねむ。の不定期ショコラSNS.β(仮)※2023年1月版

Twitterが色々物騒で、分散型SNSとか模索してるなか、ひとまず、はてなにも支所(?)的なものを用意しておこうと思って、こういう趣旨の記事(というか、トップページ、タイムラインと言えばいいのかな?)を作っちゃいました、パチパチパチ🎉 月別にしていくか、ずっと日々思ってメモしておきたいなと思ったことをつらつらと羅列していくかは今のところ未定(な企画?)です。(2023年1月現在)

 

(というか、今は無き、ヤフーブログから記事を移行してから、それなりに月日は経ってるんだなぁと。ずっと放置済みだったけど、改めて見ると色々しんみりくることってありますね、こういうの、やっぱり、なんというか…)

 

◎2023年

・1月

13日

→LINEの、ヘパリーゼW売上No.1年末大感謝祭キャンペーン、えらべるPay(100円分)当選したんゴ! わーい! paypayは、節電プログラムかなんかで2000円分ほどもらってたから、気分でアマギフにしますた。

 

日伊首脳、安保協力を推進。2国間関係を「戦略的パートナーシップ」に格上げすることで一致。次期戦闘機共同開発の件もあったし、戦車を国土の重要な部分にのみ配置し、他は装輪装甲車等で代用するっていう軍事戦略と言うかドクトリンも一致してるとこはあるのよね。我が方のイタリア軍ですとかいじられてきた経緯があるけど、頼りになるならそれに越したことはないんだけどね〜、どうなんでしょ?

 

Leaving the Huobi exchangeという記事を、Mediumで見かけた。ここ結構、仮想通貨の情報屋、通な人多い印象があるからまだ何か時限爆弾があるのかな〜なんて思ったり。いつもの癖で保存しただけの中で気になったやつでした。

ライム病(ライム脳症)に関する未邦訳情報まとめ

ライム病を初めて知ってから、そう日は長くないですが、驚くようなことばかりなので、一つ記事を作ることとしました。この病気は脳に侵入して悪さをすることがあり、かなりの数の精神疾患を模倣できるという対策を考えると非常に厄介な特徴を持っています。しかし、関係省庁でもある厚労省農水省ともにたいした危機感がなく、実際手元にある『動物看護の教科書 増補改訂版 第3巻』の4章、動物公衆衛生学の表1、「日本国内で問題となる可能性のあるおもな人獣共通感染症」に名前が出てくるだけで、具体的な記述はありません。あるデータでは米国の精神病患者の三分の一が感染徴候があるという指摘もあるのに、この有様です。統計がないだけで、潜在的な脅威は計り知れないものがあります。ネット上で調べても、慢性疲労症候群に傾倒している感があり、模倣できる精神疾患についてはほぼノーデータのわりにはガセネタが蔓延してる悲惨な有様で思わず絶句しました。ですので、熱意のある有志からのコメントはすごく大歓迎です! 更新・加筆はぼちぼちやっていきます(最終更新日も付記します)

ディズレーリの『Vindication of the English Constitution』の貴族院擁護の部分の抄訳(翻訳)

タイトルに悩みましたが、ディズレーリのそれを中川八洋氏は『保守主義の哲学』で、『英国国体の擁護』とし、約七百ページにものぼる大著、『ヂスレリー』上下巻を記した政治家でもあった鶴見祐輔氏は、『英国憲法擁護論』と訳しました。一通り、訳し終えたので、先行アップロードすることとします。ちなみに、私の英語力は中卒レベルなので、それなりに間違いがあるかもしれません。大方としては外していないと思いますが、「こうしたほうがよいのでは?」というアドバイスがあったら遠慮なくコメントしていただけると有難いです。Internet ArchiveよりFull textを参考にしました(https://archive.org/stream/vindicationengl01disrgoog/vindicationengl01disrgoog_djvu.txt)。

「反ルソー」のサミュエル・テイラー・コールリッジとその憲法観(1)

(ネット上に本当に情報がないので、今回は『フランス革命と近代政治思想の転回』に収録されている、柏経学氏の「イギリス・ロマン主義の政治思想 : W.ワーヅワスおよびS.T.コールリッジ」を参考に進めていきます。なお、この記事はコールリッジ研究の上級編にあたるので、初めての方は拙稿、https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41513798.htmlと、https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41522579.htmlを読んでから一読されるとよいかと思います。)

新説 ジョン・タイター 2020年日本地図 No.2「2020年に起こる第2の出来事」

前回のNo.1では第1の出来事として、2020年に財政破綻が起きるという非常にショッキングなことを書きましたが、これはあくまで自国内です。自国内だけでも大変なのに、日本の命運は尽きたのかと錯覚せざるを得ない「2020年の第2の出来事」が発生します。最悪の出来事が連鎖するから2020年なのかもしれません。その第2の出来事についても中川氏は、別の著でこのように主張されています。

実際に中共では、(ソ連製)六万トン空母「旧ワリヤーグ」が改修をほぼ終えて就役直前だし、これに加えて二隻の五~六万トンの空母を国産で二〇一六年までに建造することになった。台湾の命運は、これらの空母の運用が開始される二〇二〇年頃と予測される。・・・・・・そして、台湾併合の次は、沖縄占領を敢行するだろう。すでに実行している強盗のような東シナ海での天然ガス生産にしろ、尖閣列島の領有への野望にしろ、(沖縄周辺の海洋地図作成を実行しているのもそうだし)、それらは沖縄侵攻への前哨戦である。・・・・・・台湾は"沖縄を守る不沈空母"であり、台湾の独立なしに沖縄の安全はない。この程度の初歩的な常識をもつのが、主権国家の正常な国民ではないのか (中川八洋 『地政学の論理』 十二~十三貢 文章内の()は、別の何かの著で著者が記述していたことを私が追加した)

文章の通りですが、第2の出来事は、2020年頃に台湾や沖縄が中共によって侵攻される、ということです。この『地政学の論理』は日本外交に欠かせない「スパイクマン地政学」と日本国防に死活的な意味合いを持つ「マッキンダー地政学」の2つを中心に軍事、国際情勢について述べられているもので、中共やロシアがどれほど脅威であるか、逆に日本における「反米」がいかに間違っているか、むしろ、日本とアメリカの国防、言い換えれば、両国は国益が合致することについて鋭く解説されているものです。

台湾という国が良く知られているように、「親日」であったり、あるいは、アメリカと協力関係にあるのは、おそらく、本能的にそうしないと台湾が滅びると確信しているからでしょうが、まさにその通りで、台湾に侵攻という形で火がつくと、「台湾→沖縄→日本(本土)」とガソリンが引火するかのごとく大連鎖が起きるためであり、この台湾・沖縄・日本(本土)は「運命共同体」に近い関係にあるものです。

No.3では、2020年地図の直接的な原因となるあることについて、書く予定です

民主政治を人体でいう「血液」と表現した、英国保守主義思想界No.2のサミュエル・テイラー・コールリッジ(2)

唯物論をモーゼの『創世記』を持ち出して、「亡霊」と批判したり、マルクス主義を、「とてつもない実際的な詭弁」とし、英国の指導者たちを占有してしまっているのに嫌悪感を覚えるなどプラスの面もある反面、似通った思想をもつ哲学者、同業者をやたらけなすという人格上の欠陥がありました。

エドマンド・バークに対しては、

バークの「崇高で美しいもの」に関する論文を私は貧弱であると思います。そして、彼が趣味について述べていることは深遠でもなければ、正確でもありません

バーク氏は実に偉大な人物でした。彼が読んだと思われる程までに歴史を哲学的に読んだ人は今まで一人もいません。しかし、彼が自らの一般原理をさもしい利害関係、財産恐慌とか、ジャコバン主義などと結びつけて考えることができないうちは彼は単なる食事を知らせるベルにすぎなかったのです。こういうわけで、みなさんはバーク氏の演説と著書になまはんかな真理があることにきづくでしょう。それでも彼の卓越した偉大さを心から認めましょう

(備考)バークがdinner bellと呼ばれた理由は彼の演説が長引くと他の下院議員たちが食事を取りに行ったからである。このニックネームは彼が頭を波状に動かす癖があったことに由来している

功利主義批判では同志ともいえるジョージ・カニングに対しては、

カニングは非常に怒りっぽい、即ち、いつもひどい仕打ちをくわえる才人である割には驚くほど怒りっぽかったのです。彼は国会に出る前にロバの皮を被るべきでした。……彼は指導的精神のある人ではありません。彼は風雪に乗じることができないのです

カニングは美しく、優れたものを見極める知的な感覚を備えていました。―即ち、彼は人をののしったり、けなしたり、人の面目を失わせる慈愛を除いて滅多に話しません

こういった人格上の欠陥にさらに追い打ちをかけるのが「新プラトニスト」と呼ばれるほど、「全体主義の祖」プラトンを称賛していたことです。ルソーやマルクスを批判しながらその源流のプラトンを危険視しなかったという矛盾がコールリッジの特徴なのかもしれません。

プラトンの著作は精神を鍛えるための練習問題のようなものです。彼の著作品を読めばみなさんは様々な命題が概念を内包しているにもかかわらず真実であることがお分かりになるでしょう。……私はプラトンの著作の大半を深く注意を払って数回読みましたが彼の全作品を読んだわけではありません。私はプラトンの著作品を前もってよんだことがあります。彼は最高の天才でした

プラトンが「全体主義の祖」であるのは、ナチズムの思想的源流を解剖したポパーの『開かれた社会とその敵』で剔抉されていますが、その解説が中川八洋氏の『保守主義の哲学』にあるので、いくつか引用します。

(『法律』で)プラトンは個人に対して敵意をむき出し個人の自由を憎悪する哲人であったので、個人の存在しない体制を構想した。すべての国民がすべてを共有し完全に同一の思考や感情を持ち同一の生活をする国家を法律で作る(強制する)ことを夢想したのである(二四五項)

しかも、ルソーもヘーゲル全体主義を「全体主義の元祖」プラトンに学んでおり、この点において両名は、プラトンの兄弟弟子という関係にある。ただ、ルソーにとってプラトンは換骨奪胎されてヒント程度であったが、ヘーゲルにとっては部族主義的・シャーマニズムプラトンがそのまま血肉となった(二四一項)

プラトンの描いたユートピアとしての国家は、このように、軍隊というより刑務所そのものを拡大したものであった(二四六項)

コールリッジはどうもネット上に散見されるPDFなどを見ると、ジャコバイト時代に財産の共有を強く志向していたことがあるようで、もしそれがプラトンによって毒されたものだとするならば、終生頭から離れなかったのかもしれません。

総括すると、彼はひどい抑うつがあり、躁鬱病だったというのは、私(ハテノヨゾラ)が遺伝性の同じ病気があるので同情したくなりますが、阿片中毒に陥って最終的には悲惨な末路をたどったのは同業者をけなしまくった自業自得と評価されてもおかしくないと思います。ただ、今日の日本にとってはディズレーリに受け継がれたりとバーク以上に価値があるとも考えています

民主政治を人体でいう「血液」と表現した、英国保守主義思想界No.2のサミュエル・テイラー・コールリッジ(1)

サミュエル・テイラー・コールリッジとは、『英国社会思想史研究』を記した、石上良平・元成蹊大学政経学部教授によれば、エドマンド・バークに次ぐNo.2であり、それを米国で広めたラッセル・カークが『保守主義の精神』で言及しているくらいです。カークはベンサム功利主義に批判した功績を評価しています(https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-06-26)。その他の関連する哲学者を挙げると、エリオットは「英国で最も偉大で最後の批評家」としていて(https://www.socialmatter.net/2016/08/06/poets-s-t-coleridge/)、ディズレーリの哲学にも影響を与えたようです(http://newsweekly.com.au/article.php?id=1803)。

(コールリッジに関しては日本語・英語問わず、ネット上で具体的な情報、例えばどういう発言をしたかなどがほとんど見当たらないので、H.N.コールリッジの『Table Talk』を定本にした野上憲男・京都経済短期大学教授の著書、『コールリッジ談話集』を参考に論を進めていきます。特に記載のない限り、表す項数はこの書籍のものです)

コールリッジの最大の功績をまず挙げると、「民主政治ー国家観ー教会」で述べた、国家を構成する上での民主政治を人体に例えて、「血液」と表現したことでしょう。なるほど、一般に保守主義思想では民主政治やその主体の大衆に危機感や嫌悪感を覚え、敵意を現わにする傾向が強く、多数には受け入れがたい点、同じ系譜の他の哲学者とは一線を画すものでしょう。我が国でいえば、かつて過激思想に走った「最後の元老」、西園寺公望公に近く、元ジャコバイトだったからこそなせる業なのかもしれません。

民主政治はそれだけでは一国を設立する際の適切な要素ではないということは今だに了解されたこともなければ、明確に表明されたこともありません。国家観とは疑いもなく「最高の人々からなる」政治ー貴族政治です。民主政治は静脈と動脈を循環する健全な生き血のようなものであり、それは身体の生命を維持しますが、体の外には現れるものではなく、現れるとすれば生命としてではなく、単なる血そのものとしてだけです。

観念的には国家は教会の反対名辞です。国家は個々個人ではなく、様々な社会層の人々を重要視します。そして、国家は内面的長所によるのではなく、財産とか素性などの外面的な付帯的事情によって各階層を評価します。しかし、教会はこれとは逆のことをさし、外面的な事情はすべて無視し、人間を個々個人として見、地位の類別を認めず、賢明さ、学識、神聖さが際立っているか、そうでないかといったようなことで協議することを認めています。そういうわけで、観念的には教会だけが唯一の純粋な民主政体です。このように考えられる教会ともっぱら教会国家がいっしょになって最も大きな意味で国家観をつくりあげているのです(一九一項)

コールリッジ自身が表現しているわけでもなく、様々な解釈ができると思いますが、我が国に例えると、血液が民主政治、筋肉がかつて存在した堂上公家や大名華族(貴族制)、骨格や頭脳、皮膚が皇室制度(君主制)となるのではないでしょうか。こう考えると、民主政治の必要性を認めていることになり、現在の日本でもどうして、皇室制度はもとより貴族制にあたる地位の復権が必要なのか幅広く受け入れられると思います。

こういった封建遺制の重要性の話となると、コンビネーションさせたいのがやはり、同じ英国のバジョットでしょう。彼は、「民の声は悪魔の声」と表している点、コールリッジとは対照的ですが、権威・権力の説明、国内にある主権の三者分有論を組み合わせるとき、一騎当千、無双の力を与えてくれるはずです。まずは、前者の説明が中川八洋氏の『正統の憲法 バークの哲学』にあるので、引用します(八〇、八一項)。

バジョットはまず、英国の憲法(国体)が定める統治機構は、「威厳をもった部分」(=君主制)と「機能する部分」(=政府)の二つからなっているとする。そして、統治機構の「威厳をもった部分」が国民の忠誠や信頼を獲得するから、統治機構の「機能する部分」はそれを利用して統治を円滑に実行できる、と洞察したのである。逆にいえば、統治機構は、「お飾り的」であろうとも「威厳をもった部分」を欠いてはならないし、それが必要である、と。そして、国民に最大の尊敬を持たせる「威厳をもった部分」は、国民の感覚に訴える「演劇的要素」をもつ君主制である。この君主制という「威厳をもった演劇的部分」が、被治者である国民の心を統治権力に従順させる方向に動かす、と

さらに、『正統の哲学 異端の思想』では三者分有論の説明がなされています(二三二項)。

なお、主権が「国民」など国内政治のいかなるものにも集中的に専有されていないとする点ではハイエクと同じだが、主権が国内政治をあらゆる個人、家族や企業を含めたあらゆる団体、司法・立法・行政などのあらゆる機関に分有されているという説明はそれなりの意味はあるように思える。次なるバジョットの三者分有論もその一つである。
「イギリス国体(=憲法)の優秀性は、……君主制的要素、貴族制的要素、民主制的要素が、それぞれ最高主権を分有し、最高主権の発動のためには、この三者全部の同意が必要であるとされる点である」

特に、三者分有論についていえば、コールリッジの民主政治ひいては封建遺制を身体に例えた主張と組み合わせると、三者のいずれが欠けてもどこかで必ずや機能不全を起こし、決して最高のパワーを発揮することはできないともいえるでしょう。皇室制度が弱体化し、貴族制はとうの昔になくなり、それらの擁護・復権の議論など全くと言っていいほど存在しない泥船と化した今日の日本を予言していたのかもしれませんね。

そして、上述の「国家は教会の反対名辞」とあるように宗教の大切さも説いています。伝統ある既成宗教は正統な自由を擁護するというのは保守主義の重要な要素の一つですが、コールリッジもその例に漏れません。「宗教は人を礼儀正しくさせる」です。

みなさんは本質的に世の中で最も礼儀正しいものである宗教を当てにするかもしれません。宗教は空念仏と交じり合わなければそれだけで人を上品にするでしょう。私は宗教を除いてそのものだけで人を上品にするようなものを全く他に知りません。確かに、礼儀作法を壮麗なものにすると思われている兵役でさえそのようなことをすることはできないでしょう

ただ、私の知る限り、伝統ある既成宗教の擁護に関してはナンバーワンとだけあって、バークの理論のほうが上を行っていると思います。無神論に対する攻撃や「国家聖別」論がそれですね。中川氏の『保守主義の哲学』の一三八~一四一項で言及されているのでいくつか取り上げます。

既存宗教の否定論である、無神論や理神論が危険で有害なのは、この「神の意志」の観相を不可能にしてしまうからである。「神の意志」への畏怖なくして、人間の道徳的な向上を可能とし、また義務とする、正しい文明社会(国家)が生命をうることはできない

『自然社会の擁護』の一部、「神の摂理を論破し、神は正義でもなく善でもないと主張して、われわれの敬神性や神への信頼は高まるのだろうか。……このような宗教破壊に用いられた装置は、同じく政府を成功裡に転覆する道具となるだろう」

フランス革命省察』の一部、「制度としての教会、それはわれわれの偏見の第一番目のもので……深淵にして広い叡智をもっている偏見です。この制度としての教会という宗教体系によって、……われわれは古代に獲得したまま一貫して今日にもつづいている人間の感覚に基づいて行動しています。この感覚(偏見)が、国家という壮大な建造物が、……聖なる神殿として瀆聖と破壊から守られるように、この国家を荘厳かつ永遠に聖別したのです」

実際に、フランス革命という「国家破壊」の暴力は、フランスの「国教」カソリック教会に対する蔑視から始まり、次にこの既存宗教を絶滅する運動へと拡大して、ついには大規模な原爆のごとき爆風となった

中川氏は結びに、政府は、宗教の強制をしてはならないが、このような「偏見」に基づく礼拝と儀式を、宗教否定の邪教イデオロギーから守る権力(剣)でなければならない、として終わっています。

さらに、コールリッジは初期フランス革命家たちの「帰謬法」、ルソーの理性を批判しています。矛盾を指摘している点では、上述の国家観に並ぶ功績だと考えられます。

実際、ルソーは理性を有する人間すべてに固有の不可譲の主権が先天的に備わっています。このことから一七九一年の憲法の立案者たちは国民自身が自らの唯一の正当な立法者であり、選ばれた議員に人民の意思を表し、告白する権限を委託するようにと国民自らの権利を敢えて撤回しているにすぎないと推論しています。しかし、これには全く根拠がありません。というのも、このような結果を導き出そうとする企てが試みられる原理によるならば主権を有する合法的な立法者は実際の人間ではなくて、抽象的な理性だけであるということがすでに十分に示されてきているからです。これら二つの非常に異なったものの混同が余りにもひどい過ちであるために憲法制定会議はある程度まぎれもない無節操がなければ一歩踏み出して自らの権利の宣言を行う事は殆ど不可能でしょう。子供たちはあらゆる政治的権力から除外されています。子供たちは理性の能力が備わっている人間ではないのでしょうか。まさかそんなことはないでしょう!……しかし、その(社会の)システム全体を支えている原理とは理性が程度を許容することなど有り得ないということです。そういうわけで、程度の変化はどのような必要な法にも従うことがないので、程度に完全に存するものは何一つとして純粋な科学の対象になりません。即ち、単なる理性によって決定されることはあり得ません(二〇六~七項)

長くなったので、その他のスタンス、人間性プラトンを称賛しているなどの暗黒面については次稿に改めます。