リバタリアンやそれに近い保守主義者が擁護するJ.S. ミルの危険な正体
J.S. ミルとは、wiki(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB)にもあるように、「社会主義者」であることを隠していません。ですから、リバタリアニズムや保守主義とは国家干渉を嫌う点で対極にある思想になるはずですが、頑なに擁護する傾向にあるようです。以前、Twitter上で反ルソーでバークを支持するリバタリアンの血が混じった保守主義者と多少関わったことがあるのですが、ミルを批判するツイートをやると、即座に反駁するかのようなツイートをしていたのを記憶しています。今回はそういうサイドにモテモテなミルを剔抉していこうと思います。
J.S. ミルとなると、『自由論』がまず先頭に出てきますが、その主張といえば、他人の自由に迷惑をかけない限り、個人は自らの「主権者」であるから、何事にも「自己決定」できる「自由」がある、という内容で、その危険性についての指摘がネット上に見受けられます(http://www.geocities.jp/burke_revival/burke.htm)。
ミルのように「他人に迷惑をかけない限り」と言っても、自分の行動が「他人に迷惑をかけていない」と何をもって判断するのか。
あるいは、極論すれば、なぜわれわれは、「他人に迷惑をかけてはいけない」と感ずるのか。
おそらく、多くの日本国民は、「他人に迷惑をかけていない」とは“日本国憲法”や「法律」に反していないこと、と答えるかもしれない。
しかし、最低限度そうであるとしても、それでは“日本国憲法”や「法律」に反することが何故いけないと思う(感じる)のか=他人に迷惑をかけてはいけないと感ずるのかを問えば、それは日本国民各個に備わっている義務観・道徳観・倫理観に由っていると答えざるえないことは自明であろう。
では、“義務観”や“道徳観”や“倫理観”とは「何であるのか」をわれわれはどのように学び、知り、身に付けるのであろうか。
それは、決して先天的に人間の理性に備わっているもの(=放っておけば成長するにつれて自己の理性が自然に発現して身につくもの)ではなく、日本国の法や伝統や慣習の中に涵養された道徳観・義務観・倫理観を“家族”や“血縁、地縁、宗教、職業などから自生的に成長する社会(=個人と国家の間に形成され、国家権力の個人への直接的干渉を抑制する「中間組織」)”の中で躾られ、教わり、学ぶことによって知るしかないのである。
つまり、ミルの言説のような「伝統や慣習の否定」と「他人に迷惑をかけない」は両立不可能の甚だしい矛盾律であることが解るであろう。
また、明らかに「矛盾するもの」を「矛盾しない」とする「詭弁」はルソー哲学やヘーゲルの観念弁証法やマルクスの唯物弁証法に顕著に現われる
しかし、これだけだと伝統や慣習をどう思うかの次元で、基本的にそういうのに否定的なリバタリアンにとっては痛くも痒くもないはず。ですが、人物についてみるときは前後や他の著作・発言と照らし合わせる必要があります。
石上氏によると、ミルは一八〇六年出生からして、フランス革命の直後に産まれたことになる幼少期のころからフランスの空気を好んでいたようです(二一一項)。当時のフランスの「空気」とは、正統な自由・伝統が徹底的に破壊され、暴動多発、ギロチン大量稼働で流血の地獄絵図なわけだったので、小さい頃から心がどす黒く染まっていたようです。そしてどうも、一生変わらなかったようなので、革命の再生産で血で血を洗うフランスに対して嫌悪感を覚えなかったのでしょう。
さて、ミルの二月革命に対する想いは、ベインという人物が回想するように、「一八五一年十二月の破局まで、フランスの政治的将来に対して熱烈な信頼をよせていた」ほどであり、それは一八五二年に書かれた、「一八四八年二月のフランス革命の擁護ーブルーアム卿等に答う」に収束されます。時系列を整理すると、この論は『自由論』(一八五九年)の七年前に書かれたもので、いじわるな見方をするとこの時点でもミルの定義する「自由」は相当胡散臭いものになります。
さらに、死去の年に出された、『自伝』では二月革命をおおまかに次のように回想しています。
「一八四八年の後に来たヨーロッパの反動的傾向のためにフランス及び大陸諸国における自由もしくは社会改善の見込みは一切打ちこわされたように思われた」
ここで問題なのですが、果たしてミルの指す「自由」とはどのようなものなのでしょう。普通の方なら、常識的なまっとうな、平穏な社会を維持できる「自由」とは程遠いものをなんとなくでも感じるはずです。しかも、改善と来たのには腰を抜かす人もいるのではないでしょうか。向かう先は深淵か地獄のように思えてくるものです。
このように、ミルの『自由論』は二月革命を称賛・擁護する最低でも二つの書籍の中間に書かれたものであり、額面通りに受け取ると正確な批評ができなくなります。どう考えても、ミルの志向する「自由」は、「他人の自由に迷惑をかけない限り」の条件付きのものではなく、「自由ゼロをもって自由とする」ルソーすら想起させるものであり、間違えても保守主義者を名乗るなら支持・擁護してはいけないものです。控えめにみても、ミルの自由論は気分によって変動するような不安定なものであり、真面目にとらえれば馬鹿を見るような代物でしょう。もしくは、心底ではヨーロッパ中が、ギロチンの阿鼻叫喚の地獄絵図になる日を夢見ていたのでしょうか。
また、英国労働党の思想的源流を読んでいくと、ロバート・オーウェンと並びJ.S. ミルの名前が出てくるとのことです(三四五項)。これをもってしてなお、ミルを支持するというリバタリアン・保守主義者がいるのならたいしたものです。労働党は穏健な社会主義者だけでなく、権力を握れば大量殺戮をしでかすであろう共産主義者も数多く潜んでいると言われますので。
日本において、リバタリアンや保守主義者もしくはそう名乗るものたちがが受け入れられないのは、自らの軸すら正確に定められない脇の甘さにあるように思われます。要は、知識がない人でもどことなく都合がいいとか胡散臭さを感じてしまうのでしょう。極論をいうと、まともな政党とまでは言わなくても政治結社レベルですらなく、ただの一人も国会に送れない能力の低さもあると思いますが。そういうひとたちが、ノンポリやネトウヨ、国家社会主義的な人たちを見下していたり、けなしていたりするならば爆笑モノです。大同小異という言葉の大事さが分からないのかと。