マコーレーの功利主義批判とその他の哲学者との比較(まとめ)
最近挙げられた、ある記事によると、(https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-06-26)マコーレー以外で功利主義を批判したのは四名いるそうです。
歴史家のポール・ジョンソンはベンサム流の社会改造思想を「全体主義的傾向の強いユートピア哲学」と名づけている。
本書でカークはベンサム流の功利主義に反対した同時代の3人のロマン主義的保守主義者、すなわち文学者のウォルター・スコット(1771〜1832)、政治家のジョージ・カニング(1770〜1827)、哲学者のサミュエル・テイラー・コールリッジ(1772〜1834)を取りあげて、全体主義の潮流に抗したかれらの功績をたたえている
なかでも、コールリッジは、一九五〇年代後半のトレンドですが、バークに次ぐNo.2のポジションにあった重要人物です。それぞれ要約すると、次のような感じです。
コールリッジ→人間の目的や意志は神から発するもので、唯物主義や機械論者、功利主義者は絶望的な愚者と考えていた。純粋な民主主義が自由と真理の大義を破壊し、専制政治の到来をもたらすことを恐れてもいた。功利主義のように野放しの欲望を解き放ってしまえば、それは社会をさらに混乱と破壊におとしいれることになるだろう。コールリッジがとりわけ懸念していたのは、貪欲な利益追求が貴族的な伝統を破壊し、農業を拝金的事業に堕落させようとしていることだった。産業主義から最大多数の最大幸福を引きだそうとする功利主義は、社会改造計画と監視社会へとつながるのではないか。それがコールリッジの懸念だった。
コールリッジの「純粋な民主主義が自由と真理の大義を破壊し、専制政治の到来をもたらすことを恐れてもいた」は、マコーレーの功績と一致するところがあります。お互い同時代人で、前者が晩年で後者が三十路だったようです。(https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41497604.html)
ここまで暗黒面ばかり取り上げてきたので、評価される点、カークのいう、「純粋な民主主義は自由と文明に破滅をもたらすと考えていた」ところをあげていきます。
彼は富の不平等が甚だしい国では、貧者に権力を与えたならば、その結果は恐るべきことになる、財産制度は安全でなく、野蛮状態が現出すると考えていました。絞首台と銃剣という表現は荘厳な文章のなかに時折過激なワードを入れるバークに近いものを感じます。財産制度については、上述の神聖からして当然の懸念ですね。
ところが、大多数の人々がその日暮らしであり、莫大な富が比較的少数の人々によって蓄積されてきた国々においては、事情は甚だ違っている。……だから、もしかかる人々が、現に彼らを抑えることの殆どできない絞首台と銃剣とをその手に収めたとしたならば、いったいどんなことが起こるだろうか(一四九項)
また、フランス革命の悪い印象を挙げて、下層の人民の参加を許す代議制民主主義を否定する発言をなしていました。
それ(=代表制議会)が開催される都市の暴民がそれを威圧するかもしれないし、大向うの聴衆のわめき声がその討議を沈黙させるかもしれないし、或る有能大胆な人物がそれを解散させるかもしれない(一七八項)
私の知る限り、日本語の情報だとマコーレーの批判が一番具体的だと思います。拙稿(https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41499940.html)を引用します。
マコーレーは、「ベンサム」と名乗る功利主義者との論争のなかで、「何故政府が、そしてわれわれが、(何故、最大多数の最大幸福を求めねばならぬか)と問われるときに、これに答える用意があるか、ない」とし、その反論が、「べきではなく、何故政府にそうさせねばならぬか」となっています。力づくでもやらせる必要があると見え透いているのが怖いところです。
そして、最大多数の最大幸福は実態がないものであると喝破しています。
「だから、人類は彼らの最大幸福を生み出すように行動すべきであるというのは、最大幸福は最大幸福であるというに等しいーこれでおしまいだ!」(一六九項)
さらに、「ベンサム氏自身も、自己の幸福が一般的幸福と一致しない人々を説得して、彼の原理に則って行動するようにさせる手段を持っていない」とし、要は、暴君も迫害者も、「最大幸福」の増進の名の下に自己の悪業を行うことができる、人は最大幸福の名で、自己の勝手な幸福を追求することができる点を証明したのです。ルソーのいう、一般意志や特殊意志に近いものを感じます