春恋ねむ。の不定期ショコラβ(仮)

書庫をもじったものです。ステーキショコラにしようか迷いましたが、特に深い意味はありません。幽霊みたいな人が気まぐれで色々考えるブログ的なものがコンセプト。しばらくは暫定として、不定期ショコラSNS.β(仮)という記事に短文形式で書き込んでいく、アップデートしていく的な感じでやっていく予定でござるん。

新ウィッグでありながら「バークの弟子」とも称されるトマス・バビントン・マコーレー(2)

一八二九年にマコーレーがジェイムズ・ミルの『政府論』を攻撃したとき、功利主義者でベンサムの友人であったミルは五六歳で、マコーレーは三〇歳にも満たぬ青年論客でありました。マコーレーはその攻撃でミル一派の無教養ぶり、当たり前のことをさも新しい発見をしたかのように見せる手品を批判しています。

「(彼らは)殆ど或いは何も読書しないために、或る先生から彼ら自身の劣等感から救い出してもらって喜んでいる人々ではないかと思う。即ち、その先生は、諸君が無視している学問は何の価値もないものだと言って彼らを安心させ、五つか六つの文句を口移しに彼らに覚えこませ、『ウェストミンスター評論』の端本を貸してやって、一月経つ中には彼らを哲学者に変えてしまうのである」(一三三項)

「しかし、彼らの読書と思索は或る一種類の科目に殆ど専ら限られている。(そのため)、あたかも彼らが文学と社会についてもっと広大な観察をしたかのように、一つの偉大な体系について判断を下す資格は決してないのである」(一三四項)

「(人間は常に利己心から行動するという自明の理を)あたかもこれが目新しいものであるかのごとく大いに自慢そうに、またあたかもそれがさも重要なものであるかのごとくに大いに熱心に、宣言している」(一五四項)

特に、一三三項のような物の見方については息子のJ.S.ミルですらも反駁を覚えたそうで、また自明の理については、「そのことの内容が複雑であることを無視して、単にこれを形式的な原理として取り上げ、何らか意義あり気に持ち出すのは無益」としています。ある学問は無視していいという態度は、経済学でいう財政出動を積極的に行えとするケインズ一派に近い雰囲気を感じますね。

さらに、中世の野蛮な論争者やいかさま医者を持ち出してこうも表現してます。

「(功利主義者)が、中世の野蛮な論争者さえも殆どやらないようなこじつけで置き換えようとしている方法(=帰納法)……それぞれの病気のそれぞれの段階とそれぞれの患者の体質に応じて変わる偉大な医者の処方のごとく、その実質的効用においては、どんな風土のどんな人間のどんな病気をも癒そうとするというような、広告ばかりのいかさま医者には同じように遥かに勝る体系を、構成することを期待できよう」(一五七項)

結びに、「(功利主義は)深酒よりは健康を害することが少なく、高級な遊びよりは財産を傷つけることは少ない」として、批判を終えています。

いよいよ待ってましたとばかりの、ベンサム功利主義のメインテーマ「最大多数の最大幸福」に対する批判です。これについては既に幾人かの哲学者を調査中ですが、批判の鋭さにおいては白眉の論だと思われます。
マコーレーは、「ベンサム」と名乗る功利主義者との論争のなかで、「何故政府が、そしてわれわれが、(何故、最大多数の最大幸福を求めねばならぬか)と問われるときに、これに答える用意があるか、ない」とし、その反論が、「べきではなく、何故政府にそうさせねばならぬか」となっています。力づくでもやらせる必要があると見え透いているのが怖いところです。
そして、最大多数の最大幸福は実態がないものであると喝破しています。

「だから、人類は彼らの最大幸福を生み出すように行動すべきであるというのは、最大幸福は最大幸福であるというに等しいーこれでおしまいだ!」(一六九項)

さらに、「ベンサム氏自身も、自己の幸福が一般的幸福と一致しない人々を説得して、彼の原理に則って行動するようにさせる手段を持っていない」とし、要は、暴君も迫害者も、「最大幸福」の増進の名の下に自己の悪業を行うことができる、人は最大幸福の名で、自己の勝手な幸福を追求することができる点を証明したのです。ルソーのいう、一般意志や特殊意志に近いものを感じます。また、この「ベンサム」は極めて専制的な政治制度においても、或る抑制があれば善政が行われると言ってます。問題視していないのがすごいですし、抑制とは具体的に何を指すのか興味深いものです。それは彼らが忌み嫌う封建制やそれに共鳴する純粋な「偏見」によるものではないでしょうか。

最大多数の最大幸福は当時から相手にされていなかったとする向きもあるようですが、殊の外日本においてはかなり重要な意味合いをもつ批判だと思います。次稿は功利主義を批判した幾人の哲学者との比較(まとめ)をやっていこうかと考えています。