春恋ねむ。の不定期ショコラβ(仮)

書庫をもじったものです。ステーキショコラにしようか迷いましたが、特に深い意味はありません。幽霊みたいな人が気まぐれで色々考えるブログ的なものがコンセプト。しばらくは暫定として、不定期ショコラSNS.β(仮)という記事に短文形式で書き込んでいく、アップデートしていく的な感じでやっていく予定でござるん。

「反ルソー」のサミュエル・テイラー・コールリッジとその憲法観(1)

(ネット上に本当に情報がないので、今回は『フランス革命と近代政治思想の転回』に収録されている、柏経学氏の「イギリス・ロマン主義の政治思想 : W.ワーヅワスおよびS.T.コールリッジ」を参考に進めていきます。なお、この記事はコールリッジ研究の上級編にあたるので、初めての方は拙稿、https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41513798.htmlと、https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41522579.htmlを読んでから一読されるとよいかと思います。)

 

・反ルソーの言説
 
すなわちルソーの一般意思は、人民の個々人の声ではなく純粋理性の法則であって、それは、かれらの唇から出る声と無関係な「ある外部の腹話術師の声」(the voice of an external Ventriloquist)である(二五六項)
 
理性それ自体は万人に同じであるけれども、それを行使する手段と、それを行使するための材料―つまり事実と概念―は、異なった人々が全く異なった程度で持っているので、当然、実際の結果はみな異なる。したがってルソー哲学の原理は、単なる一つの無意味論に終わる(二五七項)
 
また、ルソーによる一般意思の抽象的理性への独占的適用を受売りし、政治的英知は純粋理性から直接引き出されるのではなくして悟性をとおして与えられることを認めようとしない後続者たちの招いたフランス革命の必然的破局について、こう述べています。
 
普遍的立法権の属する主権者の意思に関して『社会契約論』に述べられていることはすべて、いかなる「人間」にも、いかなる「社会」または「人間」の集合体にも、特にまた「国民」を構成する種々雑多な民衆にも適用されるのではなくして、万人に潜在的には確かに存在するがいかなる人間にもいかなる人間集団にも現実かつまったく純粋には存在しないところの「理性」にだけ独占的に適用されるのである。この「全体意思」と「一般意思」との区別を、ルソーの後の弟子たちはまったく忘れようと欲した。そして(まったく憂うべきことには!)フランスの国民議会の議員たちもまた同じようにそのことを忘れた。みじめな受売りによって彼らは、「一般意思」ー国民の不可譲の主権ーについて始終書きかつ熱弁をふるった。そしてこれらの大げさな語句によってかれらは、見掛け倒しで、無知の、熱狂的人民を、甚だしい不謹慎といっそうの放埓な期待に導いたが、終にはひどい失望を伴って軍事的専制主義、つまり「ジャコバン主義者」たちの悪魔的「恐怖政治」や「コルシカ人」のもとの悪魔的「暴圧政治」への道を開いた(二五七~八項)
 
さらに、それはまた、人々を精神的・道徳的無政府状態に導く革命の欺偽科学であると力説しました。
 
単一かつ排他的に与えられた理性ーわが本性の「立法府」(the legislative)ーの理解力、不偏、先見の明は、知性の単なる幻想、道徳の怠惰または冷酷さとなる。それは国土のないコスモポリタニズム、隣人または血縁のない博愛の科学、要約すれば、フランス革命のかの哲学のすべての欺偽の科学であって、その哲学は、すべての人々の影のような偶像へ各人を犠牲とするであろう(二五八項)
 
・国家と憲法
 
国家とは「それ自体のなかにその統一原理をもつ一政治体」(a body politic having the principle of its unity within itself)であり、個々人で構成されるにせよ、単一の意思を定則化して単一体として行動しうるものでなければならない。そして、共同体として結合させ、それに統一原理を与え、原子的集団である個々の市民に共通の忠誠心と同一性を喚起して彼らを政治的国民とするのが、「理念」である。
 
一方、英国憲法を、理念としての諸力の持続的均衡と考え、英国国民が幾世紀にもわたって保持してきたこの政治的支配原理を「平衡法則」と呼んだが、それぞれが適切に均衡しなければならない三つの社会的要素を挙げた。それぞれ、
 
・「持続」と「進歩」
・「教会」と「世俗国家」
・「能動力」「潜在力」
 
となる。
まず、「持続」と「進歩」の二要素は健全な社会においては必ず不断に相互作用させる必要があり、それぞれ、
 
「持続」……固定した組織チャンネル内に国民生活の様々の活動力を含み入れようと努める社会のあらゆる傾向であって、法律、制度、習慣、感情など。国家の骨格部分といえばいいでしょうか。
 
「進歩」……既定の社会的、政治的、法律的構造の中にはあまり含まれていないところの、社会における気まぐれや移り気の要素であって、必然的に変化をもたらすものであるが、この力なくしては、活力も自由も物質的福祉の改善もありえない。これが行き過ぎると自由ある文明社会が危機に陥りますね。
 
と定義しています。
そして、それらのなかにある議会は、単に個々の代表者の集合体ではなくして国家の全体利益を委託されたものであって、上院と下院は、それぞれ地主利益と個人的利益を代表し、持続と進歩との均衡を保持しつつ相互に抑制して一方の専制化を防ぐものであった。そして、国王は、持続と進歩の二大対立勢力の間にあって、忠誠の共通の中心となって「憲法上の天秤計りのさお」(the beam of the constitutional scales)の役割を果たすことになるとしています。
 
こう聞くと、我が国にかつてあった何かと共通点が見出せるかと思います。そう非常に誤解されている知的遺産というべき明治憲法です。よくある、天皇にさも大権があったかのようなイメージが教科書などによって植え付られていますが、ネット上に現代語訳された便利な記事があるので(https://ameblo.jp/trachemys-lsa16/entry-10844679288.html)、列挙します。
 
第4条 天皇国家元首であり、統治権を統合して掌握し、憲法の規定により統治を行う。 
 
第37条 全ての法律は、帝国議会の協賛を経る必要がある。 

第55条 ① 各国務大臣天皇に助言を施し、その責任を負う。 

② 全ての法律・勅令・その他国務に関する詔勅は、国務大臣の副署が必要である。 
 
第74条 ① 皇室典範の改正は、帝国議会の議決を経る必要はない。 

② 皇室典範によって、この憲法の条規を変更する事は出来ない。 


第75条 憲法及び皇室典範は、摂政を置いている間は、これを変更する事は出来ない。 
 
憲法の条文にはよほどおかしなものでもない限り、優劣は存在せず並列的に扱うのでありのままにみれば、勅命といえど臣下の副署が必要で、皇室典範を悪用して憲法を好きなように変えることを禁じ、摂政が暴走するシナリオを想定しているので、天皇はむしろかなり制限されていて、「統治権を統合して掌握」は、立法府・行政府・司法府の三権の源泉だったとするのが公平な見方でしょう。コールリッジ流にいえば、「天秤計りのさお」でもあったわけです。ただ、問題なのは内閣に特権を敷いているところで、副署の責任の所在が曖昧で実質無答責だったところが暴走の原因でもありました。非常に誤解が多いので、中川八洋氏の『正統の憲法 バークの哲学』より、いくつか引用しておきます。
 
ところで、英国と米国とが「国民主権」を憲法原理に反する虚妄のイデオロギーだとして拒絶した理由と、井上毅らの「国民主権排除の論理は半ば同じだが半ば相違する。第一に、英米のは、バークやハミルトンらが警告するように、大衆・民衆に対する不信から発している。デモクラシーによって生じる「多数者による専制」を危惧した、「国民主権」の否定思想である。一方、日本のは、君主(天皇)の大権と齟齬をきたすことへの危惧であった。英国憲法が、国体である君主制や国民の国王への尊崇やその王位継承を絶対的に堅持することと両立しえないが故に「国民主権」を排除したのは、第二番目の理由だった。が、明治憲法においてはそれが最前面にあった(一六七項)
 
プロイセン憲法型の君主内閣制を選択した伊藤博文の意図は、(米国の憲法起草の流れと同一で)「議会の専制」を抑制すること、それが日米の憲法起草者の共通する意図であったと考えられる。米国は、①議会から独立した大統領による議会との権力均衡と法案拒否権、および②「ハミルトン・マーシャル」で確立した、議会の立法を「違憲」と宣言して破棄せしめる司法部の立法審査権である。一方、日本は議会に内閣を組閣する権能を与えないことで「議会の専制」を抑制しようとしたのである。君主内閣制を明治憲法が条文で定めながら、条文なき「不文律の法」をもって‘’天皇不親政‘’という反・君主内閣制の運用を初めから定めてもいた、明治憲法の矛盾は、この理由ではないだろうか(一六九~七〇項)

明治憲法が英国型であるのは、起草者の一人、金子堅太郎が生粋の英国派でバークに精通し、英国憲法を専攻していたことでも明らかなのですが、その根拠の一つとしてコールリッジの憲法観が役に立つのは論を待たないでしょう。つまりは明治憲法の理論・概念の先駆けだったわけですが、どういうわけか日本では日の目をみないのです。本人にその気があったとは到底思えませんが、もう少し感謝されてしかるべき人物だと思います(何故か、中川八洋氏も取り上げていません…)。
 
膨大な量になったので、続きは後日に改めます