春恋ねむ。の不定期ショコラβ(仮)

書庫をもじったものです。ステーキショコラにしようか迷いましたが、特に深い意味はありません。幽霊みたいな人が気まぐれで色々考えるブログ的なものがコンセプト。しばらくは暫定として、不定期ショコラSNS.β(仮)という記事に短文形式で書き込んでいく、アップデートしていく的な感じでやっていく予定でござるん。

民主政治を人体でいう「血液」と表現した、英国保守主義思想界No.2のサミュエル・テイラー・コールリッジ(1)

サミュエル・テイラー・コールリッジとは、『英国社会思想史研究』を記した、石上良平・元成蹊大学政経学部教授によれば、エドマンド・バークに次ぐNo.2であり、それを米国で広めたラッセル・カークが『保守主義の精神』で言及しているくらいです。カークはベンサム功利主義に批判した功績を評価しています(https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-06-26)。その他の関連する哲学者を挙げると、エリオットは「英国で最も偉大で最後の批評家」としていて(https://www.socialmatter.net/2016/08/06/poets-s-t-coleridge/)、ディズレーリの哲学にも影響を与えたようです(http://newsweekly.com.au/article.php?id=1803)。

(コールリッジに関しては日本語・英語問わず、ネット上で具体的な情報、例えばどういう発言をしたかなどがほとんど見当たらないので、H.N.コールリッジの『Table Talk』を定本にした野上憲男・京都経済短期大学教授の著書、『コールリッジ談話集』を参考に論を進めていきます。特に記載のない限り、表す項数はこの書籍のものです)

コールリッジの最大の功績をまず挙げると、「民主政治ー国家観ー教会」で述べた、国家を構成する上での民主政治を人体に例えて、「血液」と表現したことでしょう。なるほど、一般に保守主義思想では民主政治やその主体の大衆に危機感や嫌悪感を覚え、敵意を現わにする傾向が強く、多数には受け入れがたい点、同じ系譜の他の哲学者とは一線を画すものでしょう。我が国でいえば、かつて過激思想に走った「最後の元老」、西園寺公望公に近く、元ジャコバイトだったからこそなせる業なのかもしれません。

民主政治はそれだけでは一国を設立する際の適切な要素ではないということは今だに了解されたこともなければ、明確に表明されたこともありません。国家観とは疑いもなく「最高の人々からなる」政治ー貴族政治です。民主政治は静脈と動脈を循環する健全な生き血のようなものであり、それは身体の生命を維持しますが、体の外には現れるものではなく、現れるとすれば生命としてではなく、単なる血そのものとしてだけです。

観念的には国家は教会の反対名辞です。国家は個々個人ではなく、様々な社会層の人々を重要視します。そして、国家は内面的長所によるのではなく、財産とか素性などの外面的な付帯的事情によって各階層を評価します。しかし、教会はこれとは逆のことをさし、外面的な事情はすべて無視し、人間を個々個人として見、地位の類別を認めず、賢明さ、学識、神聖さが際立っているか、そうでないかといったようなことで協議することを認めています。そういうわけで、観念的には教会だけが唯一の純粋な民主政体です。このように考えられる教会ともっぱら教会国家がいっしょになって最も大きな意味で国家観をつくりあげているのです(一九一項)

コールリッジ自身が表現しているわけでもなく、様々な解釈ができると思いますが、我が国に例えると、血液が民主政治、筋肉がかつて存在した堂上公家や大名華族(貴族制)、骨格や頭脳、皮膚が皇室制度(君主制)となるのではないでしょうか。こう考えると、民主政治の必要性を認めていることになり、現在の日本でもどうして、皇室制度はもとより貴族制にあたる地位の復権が必要なのか幅広く受け入れられると思います。

こういった封建遺制の重要性の話となると、コンビネーションさせたいのがやはり、同じ英国のバジョットでしょう。彼は、「民の声は悪魔の声」と表している点、コールリッジとは対照的ですが、権威・権力の説明、国内にある主権の三者分有論を組み合わせるとき、一騎当千、無双の力を与えてくれるはずです。まずは、前者の説明が中川八洋氏の『正統の憲法 バークの哲学』にあるので、引用します(八〇、八一項)。

バジョットはまず、英国の憲法(国体)が定める統治機構は、「威厳をもった部分」(=君主制)と「機能する部分」(=政府)の二つからなっているとする。そして、統治機構の「威厳をもった部分」が国民の忠誠や信頼を獲得するから、統治機構の「機能する部分」はそれを利用して統治を円滑に実行できる、と洞察したのである。逆にいえば、統治機構は、「お飾り的」であろうとも「威厳をもった部分」を欠いてはならないし、それが必要である、と。そして、国民に最大の尊敬を持たせる「威厳をもった部分」は、国民の感覚に訴える「演劇的要素」をもつ君主制である。この君主制という「威厳をもった演劇的部分」が、被治者である国民の心を統治権力に従順させる方向に動かす、と

さらに、『正統の哲学 異端の思想』では三者分有論の説明がなされています(二三二項)。

なお、主権が「国民」など国内政治のいかなるものにも集中的に専有されていないとする点ではハイエクと同じだが、主権が国内政治をあらゆる個人、家族や企業を含めたあらゆる団体、司法・立法・行政などのあらゆる機関に分有されているという説明はそれなりの意味はあるように思える。次なるバジョットの三者分有論もその一つである。
「イギリス国体(=憲法)の優秀性は、……君主制的要素、貴族制的要素、民主制的要素が、それぞれ最高主権を分有し、最高主権の発動のためには、この三者全部の同意が必要であるとされる点である」

特に、三者分有論についていえば、コールリッジの民主政治ひいては封建遺制を身体に例えた主張と組み合わせると、三者のいずれが欠けてもどこかで必ずや機能不全を起こし、決して最高のパワーを発揮することはできないともいえるでしょう。皇室制度が弱体化し、貴族制はとうの昔になくなり、それらの擁護・復権の議論など全くと言っていいほど存在しない泥船と化した今日の日本を予言していたのかもしれませんね。

そして、上述の「国家は教会の反対名辞」とあるように宗教の大切さも説いています。伝統ある既成宗教は正統な自由を擁護するというのは保守主義の重要な要素の一つですが、コールリッジもその例に漏れません。「宗教は人を礼儀正しくさせる」です。

みなさんは本質的に世の中で最も礼儀正しいものである宗教を当てにするかもしれません。宗教は空念仏と交じり合わなければそれだけで人を上品にするでしょう。私は宗教を除いてそのものだけで人を上品にするようなものを全く他に知りません。確かに、礼儀作法を壮麗なものにすると思われている兵役でさえそのようなことをすることはできないでしょう

ただ、私の知る限り、伝統ある既成宗教の擁護に関してはナンバーワンとだけあって、バークの理論のほうが上を行っていると思います。無神論に対する攻撃や「国家聖別」論がそれですね。中川氏の『保守主義の哲学』の一三八~一四一項で言及されているのでいくつか取り上げます。

既存宗教の否定論である、無神論や理神論が危険で有害なのは、この「神の意志」の観相を不可能にしてしまうからである。「神の意志」への畏怖なくして、人間の道徳的な向上を可能とし、また義務とする、正しい文明社会(国家)が生命をうることはできない

『自然社会の擁護』の一部、「神の摂理を論破し、神は正義でもなく善でもないと主張して、われわれの敬神性や神への信頼は高まるのだろうか。……このような宗教破壊に用いられた装置は、同じく政府を成功裡に転覆する道具となるだろう」

フランス革命省察』の一部、「制度としての教会、それはわれわれの偏見の第一番目のもので……深淵にして広い叡智をもっている偏見です。この制度としての教会という宗教体系によって、……われわれは古代に獲得したまま一貫して今日にもつづいている人間の感覚に基づいて行動しています。この感覚(偏見)が、国家という壮大な建造物が、……聖なる神殿として瀆聖と破壊から守られるように、この国家を荘厳かつ永遠に聖別したのです」

実際に、フランス革命という「国家破壊」の暴力は、フランスの「国教」カソリック教会に対する蔑視から始まり、次にこの既存宗教を絶滅する運動へと拡大して、ついには大規模な原爆のごとき爆風となった

中川氏は結びに、政府は、宗教の強制をしてはならないが、このような「偏見」に基づく礼拝と儀式を、宗教否定の邪教イデオロギーから守る権力(剣)でなければならない、として終わっています。

さらに、コールリッジは初期フランス革命家たちの「帰謬法」、ルソーの理性を批判しています。矛盾を指摘している点では、上述の国家観に並ぶ功績だと考えられます。

実際、ルソーは理性を有する人間すべてに固有の不可譲の主権が先天的に備わっています。このことから一七九一年の憲法の立案者たちは国民自身が自らの唯一の正当な立法者であり、選ばれた議員に人民の意思を表し、告白する権限を委託するようにと国民自らの権利を敢えて撤回しているにすぎないと推論しています。しかし、これには全く根拠がありません。というのも、このような結果を導き出そうとする企てが試みられる原理によるならば主権を有する合法的な立法者は実際の人間ではなくて、抽象的な理性だけであるということがすでに十分に示されてきているからです。これら二つの非常に異なったものの混同が余りにもひどい過ちであるために憲法制定会議はある程度まぎれもない無節操がなければ一歩踏み出して自らの権利の宣言を行う事は殆ど不可能でしょう。子供たちはあらゆる政治的権力から除外されています。子供たちは理性の能力が備わっている人間ではないのでしょうか。まさかそんなことはないでしょう!……しかし、その(社会の)システム全体を支えている原理とは理性が程度を許容することなど有り得ないということです。そういうわけで、程度の変化はどのような必要な法にも従うことがないので、程度に完全に存するものは何一つとして純粋な科学の対象になりません。即ち、単なる理性によって決定されることはあり得ません(二〇六~七項)

長くなったので、その他のスタンス、人間性プラトンを称賛しているなどの暗黒面については次稿に改めます。