春恋ねむ。の不定期ショコラβ(仮)

書庫をもじったものです。ステーキショコラにしようか迷いましたが、特に深い意味はありません。幽霊みたいな人が気まぐれで色々考えるブログ的なものがコンセプト。しばらくは暫定として、不定期ショコラSNS.β(仮)という記事に短文形式で書き込んでいく、アップデートしていく的な感じでやっていく予定でござるん。

ジョン・タイター 2020年 日本地図 考察④皇籍を剝奪された皇族方が新国家を樹立?

今上陛下から皇太子殿下に位が渡るのを正確には「譲位」なのに「退位」と悪意あからさまな表現に辟易していて、皇室の将来に不安を抱いている方はさぞ多いでしょう。そんな昨今、事あるごとに警鐘を鳴らしているある方の記事が気になりました。


その中で、秋篠宮殿下に関する次の記述を見た途端、ジョン・タイターの未来地図、「新大和皇国」が脳裏をよぎりました。

しかも、この皇太子の禁止と不在を制度化すべく、実際にも宮内庁法を改悪し、「東宮職」を全廃した。秋篠宮殿下は「東宮」でないと、宮内庁法は特例法をダメ押し的に条文化した。要するに、これらの法文規定で、秋篠宮殿下を“奇語妄語”の「皇嗣殿下」と呼ぼうとも、秋篠宮殿下は所詮、その第一位皇位継承権を皇室会議がいつでも剥奪できる一宮家に留めおかれたのである。

 女性宮家を創設し、愛子内親王殿下を形式的であれ宮家当主とするだけで、秋篠宮殿下の皇嗣は一瞬にして揺らぐ。その時、秋篠宮殿下の皇位継承順位を下げるだろうことは、火を見るより明らかなこと。もし、秋篠宮殿下がこれに抵抗すれば、皇室会議が同殿下の皇族の身位をすぐさま剥奪するだろう。少なくとも特例法は、そのように定めている。悠仁親王殿下が御即位される可能性は、1%以下であろう

つまり、秋篠宮殿下はいつでも非皇族による皇室会議によって、皇籍を剝奪されるかなり危険な状況に置かれているわけです。
問題は、秋篠宮殿下は果たして形式的な抵抗しかなされないのか、具体的な行動に移らないのかという点です。詳細は後に回しますが、私は直接的な行動に打って出られると思います。

(誠に勝手ではございますが、ここからは読みやすさを考慮し敬語は省きます)

近未来、皇族でなくなった秋篠宮殿下もしくはその他皇族方が逃避行をなすとすると、まずお供するのは皇宮警察かと。昔のような近衛師団が存在しないので、半数ほどが政府に敵対すると思われます。
逃避行の場所ですが、東京を区切ると中央にあり、ジョン・タイターの未来地図と合致し、地形的にも優れた岡山で反旗を翻すでしょう。(参考、https://j-town.net/tokyo/column/gotochicolumn/193760.html?p=all
こうなると、たくさんの有志が集結すると思われますが、皇室にゆかりのある地位の方達をあげると、天皇家の血筋にあたる旧宮家、古来から存在する貴族にあたる堂上公家、徳川幕府の大名筋で本来の意味の華族の大名華族の大半が集結するはずです。

もし本当に集結すれば理想的な立憲君主制国家の樹立となりますが、それを存続させるための戦力が肝となってきます。いわゆる自衛隊ですが、現行の中央政府に不満をもっている人は相当多く、理解のある、現状をよくする等の発言をすれば割とあっさり新政府側に寝返ると思います。(ここらへんは、トイレットペーパーを自腹で補っていたり、銃などの装備品をセロハンでぐるぐる巻きにしていたり、設備環境が劣悪など調べれば山ほど出てきます)

では、何故わたしは秋篠宮殿下は具体的な行動に移ると思ったのか。それは小さい頃から事あるたび見てきた殿下の写真に言葉では言い表せないようなカリスマ性、普段物静かだけど心のなかに熱い魂を隠し持っているような雰囲気を感じていたからです。
ある手相師の記事によると(https://ameblo.jp/yumenomiya-kaiun/entry-12270839756.html)、秋篠宮殿下は全体的に昭和天皇に似ていて、指のかたちがそっくりだそうです。そして、「使命を持って生まれてこられたお方であり、明治帝や昭和帝のような、神通力のある大帝に」なるそうで、運命線が50代半ばで切り替わっており、立場や仕事、環境が変わるとのことです。運命線の下りは未来地図と照らし合わせると奇妙にもシンクロするところがありますね。

もし、現実に秋篠宮殿下が蹶起されれば、できることは多くないと思いますが、その場所へ馳せ参じようという気持ちは揺らぐことはありません。かなり厳しい逆境に置かれていますが、どうか負けないでいただきたいです。機が訪れば、現行政府にガツンと一発かましてほしいという一臣民の思いを吐露して終わりにします。

ロシア圏のメディア(sakhalinmedia)が報じた、千島列島でのロシア軍の動向に関する、ツイート集

※2014年10月時点の記事です。

ロシアは、ウクライナに対する侵略願望を隠しておらず、最近は、ロシアが2008年にウクライナ割譲を提案=ポーランド元外相(https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-poland-sikorski-idJPKCN0IA08420141021)というニュースが報じられているようです。ところかわって、日本の北方領土方面のニュースもまったく報じられないわけではありませんが、どうも意図的なものが感じられます。
というのも、たいてい大きな話題くらいしか取り上げず、日々着々と進行しつつある千島列島でのインフラ整備や、軍事的な動向については黙殺されている感があるのです。この傾向については、なにもメディアだけでなく、国民にありのままの事実を伝えるべき政治家や行政も当てはまり、保守系と目される議員ですら、おそらく関心がないように思われます。メディアが発信しないのなら、自らが率先垂範してすべきなのに、無関心に徹しています。
はたして政治家にロシア語が最低でも読める方はいるのでしょうか? かなり怪しいものですが、最近ロシア語の基礎を覚えたばかりの身ではあるものの、読めないというわけではありません。よって、数をこなすのは難しいでしょうが、翻訳し終えたものから、挙げていきたいと考えています。

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「ペーパーのなかで触れている、ロシア産の“ザスタバ”と“グルーシャ”について言っておくと、ロシア語の基礎を知ってない方は無理して調べないほうがいいだろうね・・・。日本語圏の情報じゃどうもノーデータだし、wikiにも記載されてない

ツイートのなかで、「日本語圏の情報じゃどうもノーデータだし、wikiにも記載されてない」としていますが、これは十中八九そうだと思います。わたしの検索方法が甘いのかもしれませんが、やってみた限りでは、この翻訳記事に出てくる名称のロシア産の無人偵察機について何がしか触れているものはゼロでした。つまり、ロシアの、とくに千島列島方面の動向を正確に把握したいのならば、ロシア語の基礎、最低でも読むことはできるようになっておく必要があるのです。我が国はいったい全体どうなっているのか、真剣に将来が気にかかるものです。どういう結末を辿ってもまったくおかしくないと思います





「異才発掘プロジェクト」と松村暢隆『アメリカの才能教育』の抜粋

(注)2014年8月時点の記事です。

来たれ、未来のエジソン=異才の不登校児、発掘へ―東大先端研などサポート

 突出した才能を持ちながら、学校生活になじめず不登校になっている子どもを選抜し、日本をリードする人材に育てる「異才発掘プロジェクト」に東京大先端科学技術研究センターと日本財団が乗り出す。目標は、小学校を中退した後、母親が寄り添って勉学を支え、才能を開花させた発明王エジソンの再来という。
 飛び抜けた才能の持ち主は、コミュニケーションが苦手だったり、興味が偏ったりして授業に興味を失い、不登校になるケースがある。こうした子どもの探求心に応え、長所を伸ばすのがプロジェクトの狙いだ。
 小学3年~中学3年を対象に公募し、書類選考と面接で10人程度を選ぶ。先端研に活動スペースを設け、専門家が特別授業を開くほか、オンラインで質問に答えるなど個別指導を行う。選抜に漏れた子どものうち100人には、教材などを提供する。日本財団が、運営資金として5年間で5億円を積み立てる。
 計画が4月に発表されると、保護者からの問い合わせが500件を超えるなど反響が大きかったため、募集開始を5月から9月に延期。5都市で説明会も行うことにしたが、東京都内の会場はすぐ予約で埋まり、8月末の追加開催が決まった。
 プロジェクト責任者の中邑賢龍同センター教授は「勉強ができすぎて先生の話をつまらないと感じ、不登校になる子どもの存在が忘れ去られてきた」と指摘。日本財団の担当者、沢渡一登氏は「先生を質問攻めにして授業を中断させるような子どもが行き場を失っている。ユニークな才能をつぶしかねず、受け皿が必要だと思った」と話す。
 今後の説明会は、9日札幌市、23日福岡市、29日東京都目黒区で。いずれも先着順

簡単に眺めてみて、へぇ、なかなか面白そうな企画じゃん!と思ったので、関連する団体について調査。こういうプロジェクトは資金捻出をしてくれる財団のバックアップなんかが必要不可欠で、わたしが多少は実情を知っているアメリカもそうです。今回のケースだと、「日本財団」というところ。


wikiの記述になりますが、公益財団法人という何やらパッと見よく分からんいかにもありがちな分類ですが、どうも現在では民間色の強い財団のようで、ホッと一安心です(笑)

「財団法人ではあるが、モーターボート競走法(昭和26年法律第242号)第22条の2の規定によって設置された関係上、特殊法人の性格をも併せ持っていたが、2007年の競走法の改正により、完全な民間の財団法人になる」

「2011年4月1日に、公益財団法人になると共に正式名も「日本財団」になった。これにより、国土交通省は所管官庁ではなくなった(ただし、モーターボート競走法上の監督は引き続き受ける)」

これらを勘案すると、せいぜい国交省が若干関係があるだけで、文科省はノータッチ(まぁ、国交省は別の分野でけしからんのだが、ここでは割愛。見逃すわ)。日本の社会主義的な官僚というか行政が手を出すものはたいていダメになることがめちゃくちゃ多いので、民間主導というのは結構期待できます。

そして、肝心の「異才発掘プロジェクト」ですが、公式サイトがある模様。


これはギフテッドあるいはタレンテッドについて多少は知っている方なら誰でも疑問に思うでしょうし、記事を見たときも「?」となったんですが、どうもそういった名称は採用していないみたいですね。それらについて認識してるだろうことは、「異才発掘プロジェクト」の英名の略称、ROCKETの、

Room Of Children with Kokorozashi and Extraordinary Talents

から把握はできるんですがね。
「Talent」やその複数形は、アメリカのギフテッド教育がらみのはなしでは良く出てくるようで、たとえばフェルデューゼンという人が提唱した「TIDEモデル」というものがあったりします(注1)。
やはり、それも、

Talent Identification and Development in Education(教育での才能の発見と伸長)

となっており、しょっぱなから出てくる理論です。
この理論が生まれた背景は、レンズーリという人とも関係するのですが、一部の特定の子どもを才能児とラベル付けするのをよしとしない「才能伸長」の理念に立ち(実際にアメリカでもそう認識され攻撃を受けた時代があり、縮小したこともある)、すべての子どもの特殊な才能や適性、ニーズに合わせて多様な拡充・早修の機会を提供するための認定あるいはその方法論となっています。おそらく、このプロジェクトの推進者の方々は日本だとさらに誤解を受ける可能性を充分に考慮した結果、そういう呼び方を意図的に回避してるのだろうと思います。


それで中身についてですが、手取り足取りサポートを行う対象が10人という規模。
正直、少ないなとも思いますが、現代日本のレベルからすると、いたしかたないですね。他の分野でも似たようなものがありますが、いわば実験的な試みで、ここから始まるかもしれないといった感で、初々しさが伝わってきます。ただ、条件についてはどうも緩くしてあるようで、そこがウリといったところでしょうか。
表向きの条件は、

・小学3年~中学3年対象
・学校の授業をつまらないと感じ、不登校になっている

とありますが、前出の公式サイトのQ&AやPDFファイルの同一部分を見ると、とくにこだわるわけではないみたいです。こういった柔軟さを用意しているところも、やっぱり意識してるんじゃないかな、と匂わせる一面のように感じます。

とくに熱を入れるのは10人みたいですが、肝心なのは「選抜に漏れた子どものうち100人には、教材などを提供する」別コースも存在することです。公式サイトの説明では、オンラインのみ参加となっており、こういった手法はやはりアメリカで実施されているものです(注2)。
大学の単位取得に関するはなしですが、ミドルスクール生やハイスクール生を対象に、郵便などによる「通信コース」やインターネットを利用したオンラインでの「遠隔学習」などが普通に存在し、「二重在籍」(dual enrollment)プログラムの変種として扱われています。それらはその手段を通じて、大学の授業を履修し、大学入学後に認められる単位修得が可能となっているのです。
一例として、アメリカの私立大学の名門で、“西のハーバード”とも称される、スタンフォード大学では、

EPGY: Education Program for Gifted Youth (才能ある青少年のための教育プログラム)

というものがあり、数学や物理学、英語などの多くのコースが開講されていて、受講生はオンラインで講師の添削や相談を受けられるとのこと。「才能児のために学校や地域で提供されるプログラムに制約されず、全国(全世界)どこでも学習でき、すぐに返信をもらえるので、学習を個性化できる新しい手段として今後大いに発展するであろう」とされているので、英語が苦手ではない方は調べてみてはいかがでしょうか。ちゃっかり同盟国さんは世界に売り出してるわけですよ。

ここからは、アメリカの事例について、資金を捻出してくれる財団という観点からもう少し掘り下げてみます。アメリカには様々な分野で後押しする有名財団が数多くあり、あのマイクロソフトビル・ゲイツもそう!わたしが個人所有で持っているPCのOSはwindows7なので、当然お世話になっています。
こういうジャンルでは「いや、ちょっと待て!わたしはアップル派だ!」みたいな論争にヒートアップしかねず、なかには彼のビジネス手法を嫌っている方もいるとは思います。
しかし、彼が当然関与するゲイツ財団(Bill & Melinda Gates Foundation)は途上国の貧困問題改善には原発の存在が必要不可欠だ!との立場から新技術への投資などに積極的でもあります(ここらへんは「脱原発」という理念だけ大層に掲げて、ドン・キホーテよろしく猪突猛進するどこかの方々とは大違いです)。また、この分野も例外ではなく、「早期カレッジ・ハイスクール」開設の支援のためにかなりの額の資金提供を実施しています(注3)。

 「早期カレッジ・ハイスクール」というのは、公立のハイスクールで、短大を(編入学すれば4年生大学も)2年早く卒業できる早修措置の一環で、貧困から抜け出そうとする才能児も救済されやすい制度(優秀な成績・強い動機づけ等の条件は存在するが、ニューヨーク市内の「バード・ハイスクール早期カレッジ」の場合だと授業料は無料)です。それの拡充に、ゲイツ財団は2002年3月時点で(古いはなしですが)、4000万ドル(1ドル=100円とすれば、今回の日本財団の額のじつに8倍!)を拠出する旨を発表。このプランには、カーネギー・フォード・ケロッグ財団も協賛し、2003~4年内に70校(400人規模。今回のケースでの人数の単純な比較では、じつに40倍!)を開設するとしました。もうこのプランですらお腹いっぱいといった感じですが、やりやがったのです(笑)

ほとんど時期を経ずして2003年4月になると、規模拡大を言明。5300万ドルに上方修正し、5年間に93校以上を開設することになったようです。
内訳の一部は、

ニューヨーク市:20校(760万ドル)
ワシントン州:8校(300万ドル)
オハイオ州:5校(270万ドル)
カリフォルニア州:15校(900万ドル)

となっていて、その他にも計画が相次いだとのこと。これらの支援は、運営資金は出さず、開設資金だけを出すものなので、存続には別の問題がありますが、たぶん別の方々が肩入れをしているんじゃないかと思います。やっぱり、意識してやるとやらないではかなり違ってくるはずです。

日本の財界関係者(あるいは富裕層)はアベノミクスにおもねいて、翼賛機関になるくらいなら、こういうのに目を向けるべきではないでしょうか?現代日本では歴史は繰り返すのごとく、マルクス・ブームが招来しているので。また、とくに文科省は変な横槍を入れないでいただきたい。何かしでかしそうで、そこが一抹の不安だったり。順調に進んで欲しいものです。


1、松村暢隆『アメリカの才能教育―多様な学習ニーズに応える特別支援』、東信堂、68~69ページ。

2、同、90~91ページ。

3、同、83~85ページ。

ベルジャーエフにチェスタトン、チャーチルだけじゃない、『もしドラ』のドラッカーの本当の偉大さ

※一応、過去記事です。

http://kenpoukaisei.jugem.jp/?eid=290 という興味深い記事を読んだ経緯があって、「えっ?よくは知らないけど、萌えキャラ等で一時期それなりのブームになってたドラッカーって英米保守主義思想と関係あるのね」と驚きに満ち溢れた新鮮さからの反動で、海外サイトを調べたら、いろいろすごい事実が判明しましたとさ。

価値や偉大さは分かる方には分かるでしょうが、手っ取り早く人物名だけ挙げていくと、日本でもそれ相応に関係が知られてるエドマンド・バークウィンストン・チャーチルを始め(アレグザンダー・ハミルトンもそうかな?)、ニコライ・ベルジャーエフやG. K.チェスタトン、さらにはアレクシ・ド・トクヴィルとも思想的つながりがあるようで。やべえよやべえよ…。

現時点で掴んでるのはこんな感じだけど、一体どこまで広がるんだろう?

これもうわかんねぇな。

ともかく、ベルジャーエフチェスタトンチャーチル三者についての言及があった、情報量の多さでは随一の、The Imaginative Conservativeっていうサイトの記事から引用。(http://www.theimaginativeconservative.org/2016/03/timeless-essays-the-most-interesting-business-man-in-the-world-peter-drucker.html )

Indeed, the Nazi regime ordered that a pamphlet he had written be banned and destroyed.

実際に、ナチスドイツは、彼が書いたパンフレット(=The End of Economic Man)を発禁処分や焚書とした。

Drucker identified a number of Christians around that time who were searching for a way to provide a new basis for society, including Nicolai Berdiadiev (Berdyaev), G. K. Chesterton, Karl Barth, and Oswald von Nell-Breuning.

ドラッカーは、その当時、共同体の新たな基礎を提供する方法を模索していた幾人かのクリスチャン、ニコライ・ベルジャーエフ、G. K.チェスタトンらを特定した。

Madison, Jefferson, Burke, and Hamilton saw that there should be a separation of government in the political sphere from social rule.

 マディソン、ジェファーソン、バークそしてハミルトンらは、社会的規範からの政界における政府の分離をすべきと見出した。

正直言って、英語力はヘボヘボなほうなんで、訳としては不適かもしれないけど、大きくは間違っていないはず...。最後の引用は司法に関する言及はないから、おそらく立法府と行政府の分離のことを指しているのかなとも思いますが。とりあえず、Google翻訳頼みで気になったところだけ訳してみた。

ドラッカーについては、他に彼は何故一冊程度しか保守思想の書籍を書かなかったのかというテーマがありますが、それは後日に改めます。とても意味があることだと思いますよ

中川八洋氏の功利主義批判はマコーレーのそれを盗んだもの?

だいぶ前に中川八洋氏の『保守主義の哲学』を一読していて、久々に見たら次の点が気になりました。

「このベンサムの哲学とは、……政治は国家権力が全国民すべての個人個人を監視し(幸福)を強制するという、実に奇妙キテレツな全体主義体制の構想であった」

北朝鮮人民が地獄の日々で(将軍様)に感謝を捧げる、あの全体主義の(幸福)である」

どちらも一〇四項の記述ですが、次に拙稿でまとめたマコーレー評(https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41499940.html)をご覧ください。

「さらに、(ベンサム氏自身も、自己の幸福が一般的幸福と一致しない人々を説得して、彼の原理に則って行動するようにさせる手段を持っていない)とし、要は、暴君も迫害者も、(最大幸福)の増進の名の下に自己の悪業を行うことができる、人は最大幸福の名で、自己の勝手な幸福を追求することができる点を証明したのです」

説明は不要かもしれませんが、「暴君も迫害者も、(最大幸福)の増進の名の下に自己の悪業を行うことができる」という記述は全体主義体制を意味するものでもあります。何が言いたいかというと、この解釈は「ベンサム」と名乗る功利主義者との論争でマコーレーが指摘したものを故人である、石上良平・元成蹊大学政経学部教授が著書『英国社会思想史研究』で取り上げたものです。つまり、『保守主義の哲学』の前後で、どちらかもしくは両方の名が出ていて引用されていれば、何も非難するつもりはありません(例えば、「カークが取り上げたマコーレーの言うように」など)。あたかも、自分が見つけた功績かのように書かれているのが問題なわけです。

裁判や判例は詳しくありませんが、仮に訴訟を起こされて敗訴、著作権侵害であるとされた場合、石上氏の著書は一九五八年に書かれたものですが、死没は一九八二年。一般に故人の著作権は死後五十年続くので、二〇三二年まで権利があることになり、余裕でアウトになります。


仮に違法ではないとしても、決してパクリではない、知らなかったと弁明するのは非常に困難だと思われます。
そもそも、『保守主義の哲学』で米国のハミルトンとアダムズどっちがナンバーワンか論争を取り上げていて、そのなかでラッセル・カークの『保守主義の精神』が出てきているからです。何も、この書籍に限ったことではなく、『保守主義の精神』は中川氏の別の著書にも普通に出てきています。この『保守主義の精神』でマコーレーが正確にいうと、トマス・バビントン・マコーレーが出てくるのは、ネット上でも要約があって、確認できます(https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-07-04)。もし、マコーレーの論評を意図的に飛ばしていたのなら、知らなかったことになりますが、それはどちらにせよ研究者失格、保守主義の泰斗、大家を名乗る資格はなく、返上されることを提案します。

また、中川氏の著書を読んでいると頻繫に「ハイエクハイエクハイエク、アクトンアクトンアクトン」と二人の名前が出てきます。どちらも保守主義の系譜にある人物で著書で好意的否定的であれ、何らかの言及がなされています。これもネット上でPDFなどで散見できます。

他の弁明として思想的に混濁があったからだ、というのも考えられますが、荒っぽいと評するドラッカー(私自身は一冊しか書かなかったのは別の特殊な意図があると思っていますが)や、かつてマルキストであったポパーを取り上げ論評しているので意図的に存在を抹消している可能性が高いです。似たような功利主義批判をしている、サミュエル・テイラー・コールリッジを著書で私の知る限り、一度も言及していないのは何かやましいことでもあるのでしょうか(https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-06-26)。ちなみに、コールリッジはバークに次ぐNo.2に数えられたことがある哲学者です。

中川氏は著書で事ある度に先行研究をさらうことの大切さを説いてきました。それは大変素晴らしいことだと思いますが、他人に対しては引用を超えた盗作だなどとも攻撃しており、過去の発言と矛盾します。ネット上では、善意の文字起こしを様々な難癖をつけてアカウントをまるごと一つ潰した「全削除」事件なんかもありましたね。他には人様のバーク論を無意味と切り捨てるなど、自分には甘いダブル・スタンダードが見受けられます。そういえば、問題の記述の五行後に「盗用」という言葉が出てくるのは確信犯だからなのでしょうか。

さらに、『民主党大不況』などを読めばわかりますが、中川氏は一定の国立・私立大学をバカにしたり、「廃止せよ」という主張が見受けられます。もしかしたらですよ、いじわるな見方ですけど、「バカな成蹊大学の一教授の著作なぞ存在しないに等しい、適当に拝借しとけば問題なかろう」と心底で思って、無視したのかもしれないですね。

もはや言い逃れはできないと思いますので(国立国会図書館で検索してくださいw)、パクリはほぼ確定。一学者・研究者として最低・ゲスの極みではないでしょうか。

最後に、どうせ無交渉の交渉に徹すると思いますが、日本人相手に貫いても傷を広げるだけ、敗北しか待っていないと助言しておきます。

マコーレーの功利主義批判とその他の哲学者との比較(まとめ)

最近挙げられた、ある記事によると、(https://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2018-06-26)マコーレー以外で功利主義を批判したのは四名いるそうです。

歴史家のポール・ジョンソンベンサム流の社会改造思想を「全体主義的傾向の強いユートピア哲学」と名づけている。
 本書でカークはベンサム流の功利主義に反対した同時代の3人のロマン主義保守主義者、すなわち文学者のウォルター・スコット(1771〜1832)、政治家のジョージ・カニング(1770〜1827)、哲学者のサミュエル・テイラー・コールリッジ(1772〜1834)を取りあげて、全体主義の潮流に抗したかれらの功績をたたえている

なかでも、コールリッジは、一九五〇年代後半のトレンドですが、バークに次ぐNo.2のポジションにあった重要人物です。それぞれ要約すると、次のような感じです。

スコット→功利主義は無味乾燥な物質主義、産業世俗主義。怒濤のように押し寄せる近代化と産業化、大衆化(平等志向)が、多様性や美、古来の権利、道徳を見境なく破壊してしまうことを恐れていた。

カニング→一人のイングランドの政治家として、あたかも人間が幾何か微積分の法則に支配されているかのように政治を扱う功利主義的改革者の愚かさを避けようと努力。

コールリッジ→人間の目的や意志は神から発するもので、唯物主義や機械論者、功利主義者は絶望的な愚者と考えていた。純粋な民主主義が自由と真理の大義を破壊し、専制政治の到来をもたらすことを恐れてもいた。功利主義のように野放しの欲望を解き放ってしまえば、それは社会をさらに混乱と破壊におとしいれることになるだろう。コールリッジがとりわけ懸念していたのは、貪欲な利益追求が貴族的な伝統を破壊し、農業を拝金的事業に堕落させようとしていることだった。産業主義から最大多数の最大幸福を引きだそうとする功利主義は、社会改造計画と監視社会へとつながるのではないか。それがコールリッジの懸念だった。

コールリッジの「純粋な民主主義が自由と真理の大義を破壊し、専制政治の到来をもたらすことを恐れてもいた」は、マコーレーの功績と一致するところがあります。お互い同時代人で、前者が晩年で後者が三十路だったようです。(https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41497604.html

ここまで暗黒面ばかり取り上げてきたので、評価される点、カークのいう、「純粋な民主主義は自由と文明に破滅をもたらすと考えていた」ところをあげていきます。
彼は富の不平等が甚だしい国では、貧者に権力を与えたならば、その結果は恐るべきことになる、財産制度は安全でなく、野蛮状態が現出すると考えていました。絞首台と銃剣という表現は荘厳な文章のなかに時折過激なワードを入れるバークに近いものを感じます。財産制度については、上述の神聖からして当然の懸念ですね。

ところが、大多数の人々がその日暮らしであり、莫大な富が比較的少数の人々によって蓄積されてきた国々においては、事情は甚だ違っている。……だから、もしかかる人々が、現に彼らを抑えることの殆どできない絞首台と銃剣とをその手に収めたとしたならば、いったいどんなことが起こるだろうか(一四九項)

また、フランス革命の悪い印象を挙げて、下層の人民の参加を許す代議制民主主義を否定する発言をなしていました。

それ(=代表制議会)が開催される都市の暴民がそれを威圧するかもしれないし、大向うの聴衆のわめき声がその討議を沈黙させるかもしれないし、或る有能大胆な人物がそれを解散させるかもしれない(一七八項)

私の知る限り、日本語の情報だとマコーレーの批判が一番具体的だと思います。拙稿(https://blogs.yahoo.co.jp/hatenoyozora/41499940.html)を引用します。

マコーレーは、「ベンサム」と名乗る功利主義者との論争のなかで、「何故政府が、そしてわれわれが、(何故、最大多数の最大幸福を求めねばならぬか)と問われるときに、これに答える用意があるか、ない」とし、その反論が、「べきではなく、何故政府にそうさせねばならぬか」となっています。力づくでもやらせる必要があると見え透いているのが怖いところです。
そして、最大多数の最大幸福は実態がないものであると喝破しています。

「だから、人類は彼らの最大幸福を生み出すように行動すべきであるというのは、最大幸福は最大幸福であるというに等しいーこれでおしまいだ!」(一六九項)

さらに、「ベンサム氏自身も、自己の幸福が一般的幸福と一致しない人々を説得して、彼の原理に則って行動するようにさせる手段を持っていない」とし、要は、暴君も迫害者も、「最大幸福」の増進の名の下に自己の悪業を行うことができる、人は最大幸福の名で、自己の勝手な幸福を追求することができる点を証明したのです。ルソーのいう、一般意志や特殊意志に近いものを感じます

保守主義の精神』を読めば、具体的な引用があるかもしれませんが、現時点ではここまでですね。英語圏だと四名の具体的な情報が見つかるかもしれませんが、苦手な分野なのでぼちぼちやっていく予定です。

新ウィッグでありながら「バークの弟子」とも称されるトマス・バビントン・マコーレー(2)

一八二九年にマコーレーがジェイムズ・ミルの『政府論』を攻撃したとき、功利主義者でベンサムの友人であったミルは五六歳で、マコーレーは三〇歳にも満たぬ青年論客でありました。マコーレーはその攻撃でミル一派の無教養ぶり、当たり前のことをさも新しい発見をしたかのように見せる手品を批判しています。

「(彼らは)殆ど或いは何も読書しないために、或る先生から彼ら自身の劣等感から救い出してもらって喜んでいる人々ではないかと思う。即ち、その先生は、諸君が無視している学問は何の価値もないものだと言って彼らを安心させ、五つか六つの文句を口移しに彼らに覚えこませ、『ウェストミンスター評論』の端本を貸してやって、一月経つ中には彼らを哲学者に変えてしまうのである」(一三三項)

「しかし、彼らの読書と思索は或る一種類の科目に殆ど専ら限られている。(そのため)、あたかも彼らが文学と社会についてもっと広大な観察をしたかのように、一つの偉大な体系について判断を下す資格は決してないのである」(一三四項)

「(人間は常に利己心から行動するという自明の理を)あたかもこれが目新しいものであるかのごとく大いに自慢そうに、またあたかもそれがさも重要なものであるかのごとくに大いに熱心に、宣言している」(一五四項)

特に、一三三項のような物の見方については息子のJ.S.ミルですらも反駁を覚えたそうで、また自明の理については、「そのことの内容が複雑であることを無視して、単にこれを形式的な原理として取り上げ、何らか意義あり気に持ち出すのは無益」としています。ある学問は無視していいという態度は、経済学でいう財政出動を積極的に行えとするケインズ一派に近い雰囲気を感じますね。

さらに、中世の野蛮な論争者やいかさま医者を持ち出してこうも表現してます。

「(功利主義者)が、中世の野蛮な論争者さえも殆どやらないようなこじつけで置き換えようとしている方法(=帰納法)……それぞれの病気のそれぞれの段階とそれぞれの患者の体質に応じて変わる偉大な医者の処方のごとく、その実質的効用においては、どんな風土のどんな人間のどんな病気をも癒そうとするというような、広告ばかりのいかさま医者には同じように遥かに勝る体系を、構成することを期待できよう」(一五七項)

結びに、「(功利主義は)深酒よりは健康を害することが少なく、高級な遊びよりは財産を傷つけることは少ない」として、批判を終えています。

いよいよ待ってましたとばかりの、ベンサム功利主義のメインテーマ「最大多数の最大幸福」に対する批判です。これについては既に幾人かの哲学者を調査中ですが、批判の鋭さにおいては白眉の論だと思われます。
マコーレーは、「ベンサム」と名乗る功利主義者との論争のなかで、「何故政府が、そしてわれわれが、(何故、最大多数の最大幸福を求めねばならぬか)と問われるときに、これに答える用意があるか、ない」とし、その反論が、「べきではなく、何故政府にそうさせねばならぬか」となっています。力づくでもやらせる必要があると見え透いているのが怖いところです。
そして、最大多数の最大幸福は実態がないものであると喝破しています。

「だから、人類は彼らの最大幸福を生み出すように行動すべきであるというのは、最大幸福は最大幸福であるというに等しいーこれでおしまいだ!」(一六九項)

さらに、「ベンサム氏自身も、自己の幸福が一般的幸福と一致しない人々を説得して、彼の原理に則って行動するようにさせる手段を持っていない」とし、要は、暴君も迫害者も、「最大幸福」の増進の名の下に自己の悪業を行うことができる、人は最大幸福の名で、自己の勝手な幸福を追求することができる点を証明したのです。ルソーのいう、一般意志や特殊意志に近いものを感じます。また、この「ベンサム」は極めて専制的な政治制度においても、或る抑制があれば善政が行われると言ってます。問題視していないのがすごいですし、抑制とは具体的に何を指すのか興味深いものです。それは彼らが忌み嫌う封建制やそれに共鳴する純粋な「偏見」によるものではないでしょうか。

最大多数の最大幸福は当時から相手にされていなかったとする向きもあるようですが、殊の外日本においてはかなり重要な意味合いをもつ批判だと思います。次稿は功利主義を批判した幾人の哲学者との比較(まとめ)をやっていこうかと考えています。